念仏拾遺帳


高野山木食所、光明真言紙片、32.5×12.0cm、印版

現在は廃絶している高野山木食所は、高野山高室院文書に記録があります。正徳1(1711)~文化13(1816)の間、高室院の下に奥院木食所がありました。木食恵昌が止住したのが始まりで、亡くなるまで32年間多くの弟子を輩出しました。木食恵昌亡き後は次第に衰退したようです。木食僧は一代のカリスマ性に依拠するということができます。

この紙片は、簡単な勤行の方法が書かれています。三帰依文、光明真言、念仏、回向文の順に唱えるのは現在も同じです。このほかに、般若心経を唱えることができれば、どんな場面でも応用できます。かけだしの行者が、暗記するまでのカンペと思います。



身代わり名号、絹本仏表装

裏書「平治郎女房身代わり、宗祖聖人御真筆、十字御名号、水戸二十四輩、川和田山報佛寺」

能登の海軍軍人(明治37年入隊)の遺品がオークションにだされ、この品だけ落札しました。おそらく親御さんが、入隊する子に持たせたものと思われます。第二次大戦時の粗悪な陣中名号と比べると丁寧な造りで、親の願いの重さを感じます。

「報佛寺の身代わり名号」は真宗大谷派東京教区のホームページに掲載されています。


唯念上人名号、紙本、まくり、29.5×95.5cm

唯念上人は{寛政3年(1791)~明治13年(1880)}幕末の民俗宗教の爛熟期に、相模、伊豆、駿河で活躍した人ですが、晩年は近代化の波をどのようにご覧になったでしょうか。静岡県小山町に唯念大名号碑があり、高さ3.8メートル、幅1.5メートルで、日本最大だそうです。


本暁上人名号軸、紙本、紙表装、本紙30.5×100.5㎝

時宗一蓮寺56代法阿本暁上人は、事績も生没年も残っていないのですが、日本一高い赤坂供養塔(山梨県甲斐市竜王新町、高さ4.3メートル、幅1.12メートル、厚さ0.38メートル)がその活躍ぶりをしのばせます。しかし、廃仏の嵐がふけば、橋に転用されたこの供養塔の運命を想うとき、念仏信仰の歴史の証人として尊ばずにおれません。

ヤフオクに出品される江戸時代の名号で多いのは、祐天上人と徳本上人です。近世二大カリスマ念仏僧です。名号の需要にこたえるため量産されたようですが、いまでも人気があり高値がつきます。

祐天上人[寛永14(1637)~享保3(1718)]はよく因縁を解き明かして幽霊を再度したといわれています。増上寺36世に上り詰めました。終焉の地は東京の祐天寺です。

羽生村名主年寄、累が怨霊に対し問答の事

(祐天上人御一代記、金泉堂、明治20年1月刊、挿絵)

祐天上人行状記は三遊亭圓朝作真景累(かさね)ヶ淵の題材になりました。

落語の題は、文明開化の世の中に、幽霊というのは古い、幽霊を見るなどというのは神経の病であるから真景と付けようとなりました。


徳本上人[宝暦8年(1758)~文政1年(1818)]、名号小幅、写真上段中央と左

徳本上人の名号軸には、大幅、中幅、小幅があり、大幅は大きな講へ、中幅は小さな講へ、小幅は個人に下付されたようです。

徳本行者関東摂化講中名号記によれば、文化12年8月28日、29日、晦日の三日間、平塚市中原にある大松寺において、毎日三座の御化益が有り、小幅名号が28日と29日は各1万あまり、晦日には1万2,3千も「出けり」とあります。小幅は弟子の手になるものが多いのもうなづけます。

霊随上人[明和2年(1765)~天保6年(1836)]、名号小幅、写真上段右

霊随上人は、時宗当麻派本山無量光寺52代他阿上人です。石碑や軸には一遍上人52代前他阿とかかれているものが多く、退位後に活躍されたようです。ウェブ上、「屋根のない博物館、津久井を走る霊随上人」に詳しいです。

写真下は無量光寺境内の徳本上人と霊随上人の名号碑。当時の念仏信仰が宗派の別なく広がりを見せたことを物語っています。それは、幕末の世相(下表参照)の一部でもあります。