親鸞聖人の実像に迫る

近年の映像技術の進歩のおかげで、中世の絵画を鮮明に、かつ自宅で簡単にみることができるようになりました。親鸞聖人在世のころ(西暦1173~1263年)は、幸いにも鎌倉絵画と呼ばれる上質で細密な絵画が生まれ、社寺に伝来して現代の私たちにもたらされました。そこには、何気ない日常の衣食住や喜怒哀楽が書かれており。生活実感を伴った親鸞聖人像を思い描くたすけになってくれます。

 

親鸞聖人の風貌

鏡の御影(写真上、国宝、西本願寺蔵)は、現代のデッサン画のようで、聖人を目の当たりにして描いているに違いないと誰もが感じます。のちに描かれる絵伝や、聖人像(写真下左:安城の御影、写真下左:熊皮の御影)は、眉、目、鼻、口を模写しているものの、平面的で、存在感がうすれています。

親鸞聖人の生活

親鸞聖人は、29歳の時、比叡山を下ります。公務員僧侶を辞めて、法然上人の下で念仏聖の道に転じます。当時それは、なんの地位も保障もなく、実力だけで生活することを意味します。60歳くらいに京都に戻られるまで約30年、妻子と弟子を伴って関東を転々とされます。頭目として一行を養わなくてはなりません。さらに、新しい弟子が増えてきます。俗人から僧になる者、善行寺聖、一陀羅尼聖(のちの山伏)、阿弥聖、高野聖から転向しています。入信したというより生活の糧を求めて集まったと考えるのが自然です。

写真左上、中、下、右上:善信聖人絵琳阿本、写真右中:北野天神縁起絵巻承久本、写真右下:六道絵、滋賀、聖衆来迎寺

親鸞聖人の嘆き

国宝北野天神縁起絵巻(承久本)は承久元年(1219)ごろ描かれたもので、親鸞聖人(1173~1263)46歳頃に相当します。親鸞聖人がその目で見たであろうと思われる情景が出てきます。比叡山僧(図左上)、法華聖(図右上、持経聖とも)、巫女と山伏(一陀羅尼聖とも)(図左中)。正像末和讃の悲歎述懐讃に「仏教の威儀をもととして、天地の鬼神を尊敬(そんぎょう)す」との述べているものです。また、輿かく僧(前図右上:善信聖人絵より)、力者法師(図右中)、僕使比丘(図左下)、比丘尼(図右下)について、「比丘・比丘尼を奴婢として、法師・僧徒のたふとさも、僕従ものの名としたり」と述べています。

親鸞聖人が教行信証を書いた目的

親鸞聖人750回忌大遠忌の年に末木文美士氏が出された提言に触発されたました。「現代に通用する教えを抜き出す読み方」をやめて中世の視点で読み直せと言われたのです。中世の人々と現代の私たちはおなじ人間ですが、同じ生活をしているわけではありません。その違いをふまえて教行信証を読む。それが中世の視点で読むことになります。

親鸞聖人を葬送する弟子たち(善信聖人絵、西本願寺蔵)。親鸞聖人が教行信証を書いた目的は、この弟子たちの生活が成り立っていくように、いかなる法難、論難に対しても論陣をもって対峙できるように理論構築するのが目的だったと思います。中世は様々な民間宗教者が巷にあふれていた時代です。総じて弱い立場にあった民間宗教者の中で、念仏聖の行業生業は間違いなく仏教だと示す必要があったのだと思います。