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下記のメールは、郵便より便利という程度でお使いください。毎日1度はチェックしていますが、お返事に1日以上かかることもございますのであしからずご了承ください。
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このメールアドレスは、住職葛野公明がパソコンで管理しています。
墓じまい、仏壇じまい後の永代供養も可能です。
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本堂で年忌法要をお勤めすることが出来ます。
春秋の休日は各種行事もございますので早めにお問い合わせください。
境内に10台ほど駐車可能です。
平成29年8月13日、ひっつんつん2017、先祖さん迎え巡業
地元、兵庫県川西市加茂の六斎念仏、通称「ひっつんつん」を伝承しています。
ユーチューブで、「ひっつんつん」を検索していただくと、動画がごらんになれます。
2019年(令和元年)11月17日、今年も加茂小学校2年生の「まちたんけん隊」が来ました。報恩講を勤めた後、親鸞聖人絵伝をなおさず置き、見てもらうことにしました。親鸞聖人はみんなと同じ、満8歳(数え年9歳)でお坊さんになりました。その時の様子をが書いてあります。と、説明しましたが、理解が得られたのか不明です。それよりも、骨とか幽霊のほうが食いつきがよかったのですが、後で先生がフォローするのが大変だたのではないかと反省しています。
平成30年(2018)11月7日加茂小学校「町たんけん隊」来る。
加茂小学校2年生の生徒さん16名が見学と住職にインタビューに来られました。「常忍寺は何のためにあるのですか。」「住職さんはどんな気持ちで働いていますか。」と豪速球の質問に、あわれ「立ち往生」してしまいました。
今日見学したことを、学校に帰って1年生にクイズで教えてあげるのだそうで、責任重大です。
あらいぐまクイズで盛り上がったので、それで勘弁してください。
12月20日生徒さん達からお礼と励ましのお手紙をいただきました。こちらこそ勉強になりました。有難うございました。
平成28年11月4日、第10回川西市仏教会寺院めぐり
好天にめぐまれ無事終了しました。今回は高原寺から満願寺までの山道コースの約9キロメートルです。高原寺のエドヒガンザクラの古木はすっかり葉を落として冬籠り準備。若宮の陽を浴びた斜面には寒桜が咲いていました。柳谷のリンドウ自生地ではうすむらさきの花が咲いていました。花屋さんで見るリンドウに比べると小さくて痩せていますが、それだけに「がんばれよ」と声をかけたくなる可憐さです。満願寺では平安時代の仏像を拝見し、行者さんの法螺貝も聞かせていただきました。
案内役をしてくださった皆さん、旅の御馳走たくさんに有難うございました。
平成28年10月31日摂津十三日講お国寄り法座満了、於常忍寺
「摂津十三日講」は摂津の国川辺郡(猪名川の西岸)と豊嶋郡(猪名川の東岸)および武庫郡、兎原郡に住む西本願寺門徒で寛政年間に組織された講社です。
今回、江戸時代の真宗信仰についてお話ししました。その特徴は、先祖崇拝と阿弥陀信仰を基礎に、説教僧が親鸞信仰(親鸞聖人は阿弥陀如来の使い、もしくは化身とする信仰)を宣布し、聖人の木像を安置する本願寺への参詣を勧めることです。
例として、「石枕の御影」をご覧いただきました。現代生活に疲れたとき、一時、江戸時代に旅してみてはいかがでしょうか。
平成29年(2017年)12月、西本願寺全国講社のホームページが開設されました。
現在の本堂建立は、棟札に「宝暦九年、常忍寺五世釋教筌」とあり、西暦1759年、江戸時代中期にあたります。
その頃、東西本願寺が勢力を拡大し、それに対して幕府は様々に規制を加えてしいました。そして、西暦1741年には、門徒講(本願寺門徒の組織単位)による新寺建立が禁止されてしまいます。
そこで、加茂村講中は岩田家邸内にあった草庵「常味庵」を、寺に格上げする方法で、西本願寺から寺号、阿弥陀如来木像および親鸞聖人絵像の下賜をうけました。したがって、五世釋教筌は、実は初代ということになります。
宝暦十二年、西暦1762年に幕府は「新規の寺地寄付・譲渡・廃寺再興および寺院の改宗を禁止」します。
今となれば偽装と駆け込みの常忍寺建立秘話ですが、この時代の本願寺門徒の経済力と行動力を想わせる逸話です。
当時、摂津川辺郡加茂村は武蔵忍藩阿部氏十万石の所領でした。常忍寺の寺号は忍藩に由来します。
摂津川辺郡加茂村(現在兵庫県川西市加茂)は、池田の西に隣接し、伊丹の北に位置することから、江戸時代中ごろは伊丹、池田と並んで酒造が盛んでした。
宝暦年間、加茂の岩田家は酒造米三千五百石の酒造家に成長していました。
江戸積銘酒番付の上段左端に加茂岩田の文字が見えます。この番付は味の良し悪しを評価したものではなく、上方から江戸への輸出量のランンキングと考えられます。
江戸時代、酒造は産業分類上農業ですから、農家が酒造産業資本に成長していく姿を表わしています。
その後、酒造の中心は西宮、灘に移り、現在の加茂には酒造の痕跡がありませんが、常忍寺の豪華な欄間彫刻に当時の繁栄を、不釣り合いに小さな阿弥陀如来像に幕府の規制の名残りを見ることができます。
プロフィール
葛野 公明(かどの こうめい)
1969年行信教校学院部卒
1974年近畿大学薬学部卒。
1974年国立京都病院厚生技官、国立循環器病センター(吹田市)、国立神戸病院、国立療養所近畿中央病院および国立大阪病院勤務。
1985年常忍寺住職。
1992年関西医科大学医学博士(論博)
1998年3月国立大阪病院を退職。
1999年「郷土芸能伝習会」結成。
2000年8月13日に「ひっつんつん」を復活。以後、毎夏実施。
2010年「郷土芸能伝習会」を「ひっつんつん保存会」に改称
2011年平成22年度兵庫県ふるさと文化賞受賞。受賞理由:六斎念仏「ひっつんつん」再興
常忍寺中興十世住職葛野豊山
天保12年(1841)摂津川邉郡萩野村源正寺に生まれる。十七世教譲の三男。長男十八世教應、二男伊豫西勝寺教岸。
慶應元年(25歳)春より西新田源光寺力精和上の下で宗典を学ぶ。6年間。
明治元年(28歳)正月6日、本願寺の命をうけて本山両御堂および猿ヶ辻の警備に赴く。30日間。
明治3年(30歳)7月17日より、豊前中津照雲寺善譲和上の下で宗学を学ぶ。5年間。
明治6年(33歳)教導職十四級。神仏分離政策が一転合作になり教部省を設置全社寺を管轄した。「教導取締之印」有。
明治8年(35歳)真宗学庠専門予科初試、第二試および第三試卒業。得業。真宗学庠設立時の特例試験か。
明治11年(38歳)明治18年2月まで本山「寺務所」出仕。教導職の訓導は十三級、権少講義は十二級。
明治20年(47歳)常忍寺入寺。本願寺護持会「洗心会」発会。毎月16日常例会。
明治26年(53歳)常忍寺住職拝命。
大正6年(77歳)住職を十一世教聞継職、隠居。
大正11年(82歳)1月30日入寂。
明治維新の激動期、松島善譲、利井明朗、大洲鉄然、島地黙雷、赤松連城など、近代宗門建設の立役者がいました。同時代を共に生きた豊山の半生は、時代の変化に翻弄されながらも活気に満ちていたと思われます。
明治19年、ようやく内務省より「宗制」「寺法」制定が許可され、近代宗門として独立します。江戸時代の「寺受け制度」に代わる「護持会」をつくり、末寺、門徒の組織化をします。現在の護持会常忍寺洗心会の始まりです。戦後、各末寺が一宗教法人となり、洗心会は自動的に常忍寺護持会になりますが、発足は本願寺護持会でした。また、欧米キリスト教会にならって慈善事業を始めますが、これは成功しなかったようです。
一方、真宗教義は、明治20年(1887)から130年、「近代真宗」のままです。戦後一部修正したものの、時代社会の変化に対応できずにいます。熱を帯びた近代化努力に学ぶところがあると思います。
2017.5.11、常忍寺住 葛野公明
2016年4月14日にはじまる、熊本大震災の被災寺院並びに門徒の方々に、こころからお見舞いを申し上げます。
阪神淡路大震災の被災を経験した者として、ご心中をお察し申し上げますとともに、続く困難にも、みほとけのご加護を信じて身を励まされますよう、祈念しております。