親鸞聖人が自らを愚禿と名乗られたことは有名で、その理由を「非俗非僧」だからと書いておられます。この名乗りは親鸞聖人独特で類例が極めて少ないことから、特別の意味があるとされています。しかし、鎌倉絵画には禿髪の僧が多数描かれており、具体的な身分だった可能性があります。
西行法師(1118~1190)は平安時代末の人ですが、西行物語絵巻は1250年頃描かれており、親鸞聖人(1173~1263)在世の頃の風俗を知る貴重な絵巻です。西行法師が先達を頼んで熊野詣でをしての帰り道、大和の里で同行の先達と別れる場面です。詞書(本文)中では「先達」としており、善信聖人絵のように山臥と呼ぶのは少し時代が下がってのことです。
上:善信聖人絵淋阿本、下:善信聖人親鸞伝絵高田専修寺本
熊野本宮の場面です。平太郎の夢の中、山伏がたくさんいます。俗服に袈裟を着けています。神前に詣でるときは白衣、先達の時は柿染めを着ています。剃髪して僧になりますが、その後禿髪に伸ばします。しかし俗人ではないので髷を結いません。非俗非僧の禿です。
上:北野天神縁起絵巻承久本(1219)、下:北野天神縁起絵巻メトロポリタン本(13世紀後半)
北野天神縁起絵巻では、醍醐天皇崩御の次に日蔵上人の伝承が続きます。平安時代の承平4年(934)、日蔵上人が金峯山の笙の岩屋にこもって修行し、地獄を見聞したことを朱雀天皇に奏上します。
その日蔵上人の姿が承久本では僧形ですが、メトロポリタン本では禿髪の山伏姿になっています。
承久本は日蔵上人を三善清行の子とした「日蔵夢記」を基にしているので、貴族が出家する比叡山の僧の姿をしています。メトロポリタン本は12歳で金峯山で剃髪した「道賢上人冥途記」を基にしているので山伏姿です。
北野天神縁起絵巻、メトロポリタン本(13世紀後半)から冥途の旅をお楽しみください。残忍な画面は割愛してあります。漫画のようですが鎌倉時代の絵巻です。菅原道真の怨念と都に起きる様々な災難との因縁を解き明かす物語が、明るく軽妙なタッチで描かれています。前半は太政威徳天(天満大自在天神・菅原道真)に会う旅、後半は醍醐天皇に会う旅です。
融通念仏縁起絵巻、下巻、勧進文の段「摂取不捨曼荼羅」
摂取不捨曼荼羅は阿弥陀如来を中心に、摂取不捨の利益を被る念仏者を周りに配したものです。融通念仏縁起絵巻は1314年に成立したものですが、摂取不捨曼荼羅は建永の法難(1207)のときにはすでにあったといいますので、親鸞聖人在世のころの念仏者リストといえます。つまり、十二世紀には比叡山以外の諸宗派も浄土教を取り入れ、十三世紀に浄土教が庶民層に広がるころには、これらすべてが「念仏行者」というわけです。ここでは禿髪、俗服で袈裟を着けた姿を一陀羅尼行者と名付けており、さらに巫女とコンビになっています。このコンビの活躍ぶりを紹介しましょう。
上:北野天神縁起絵巻承久本、下:滋賀、聖衆来迎寺、六道絵、人道苦相1
鎌倉時代、生老病死の四苦のうち、生苦(しょうく)の表現には約束事のように一陀羅尼行者と巫女のコンビが描かれています。産室の中に妊婦と産婆と巫女、御簾を挟んで一陀羅尼行者。まわりでは鳴弦の儀を行い、竿先につけた護符を受け取り、庭先では陰陽師が祈祷をしています。
兵庫、極楽寺、六道絵、第1幅
縦140センチ、横120センチの大幅全3幅の起点として、右幅右下に描かれています。剥落で確認できませんが右隅に一陀羅尼行者が描かれていると思われます。
大坂、水尾弥勒堂、十王図、第1幅
一陀羅尼行者はくくり袈裟をしています。大きな声で陀羅尼を唱えているようです。生苦に立ち向かう応援歌です。現代の分娩室のBGMに応用するのもありと思います。
京都、禅林寺、十界図、阿弥陀幅、上:生苦、下:病苦
禅林寺の阿弥陀幅には生苦と病苦の両画面に出てきます。病気平癒の祈祷には比叡山の僧(画面右)も来ています。摂取不捨曼荼羅の読踊大乗行人です。病気平癒の祈祷やまじないは様々で、巫女と一陀羅尼行者だけ(春日権現験記)のこともあり、読踊大乗行人だけ(北野天神縁起絵巻)のこともあります。比叡山の念仏弾圧は経済対立でもあるのです。
春日権現験記には、巫女(みこ)が病気平癒の祈祷をしている場面が、二か所あります。上は僧侶が病床に臥せっています。下は俗人宅で、六道絵と同様に一陀羅尼行者とコンビですが、年格好から見て親子のコンビです。持ち物は大きな数珠と扇子。鼓を打ちながら呪文を唱え、四角い盆の上で占います。この巫女は春日大社支配下の巫女集団の中でも有力で名のある巫女だったのでしょう。
一遍聖絵(摸本)、三嶋大社の段
鎌倉時代の絵巻物には、絵師が自画像を書き込むことがよくあります。一遍上人没後10年、この絵巻を作るために聖戒と絵師円伊一行が一遍上人の足跡をたどるスケッチ旅行をしました。精確な絵は当時を知る一級の資料です。三嶋大社の画面では特別なおもいがあったのでしょう2回登場しています。左は一行のリーダー聖戒と、右は弟子(弟子はたびたび登場します)と。参詣のために正装をしています。禿髪に頭巾をかぶりくくり袈裟を着けています。
上:熊野曼荼羅図、クリーヴランド美術館蔵、下:一遍聖絵、清浄光寺
熊野曼荼羅図(14世紀初頭)の裏書に「釜口山長岳寺行者講方」とあります。長岳寺は興福寺大乗院の有力末寺(大先達寺院)でありることから、熊野詣での先達たちは興福寺傘下行者であることが解ります。円伊は南都絵仏師であったとおもわれます。
親鸞聖人の愚禿の名乗りの真意を探る目的で、鎌倉絵画の禿髪僧を見てきました。禿髪僧は南都仏教の造像造堂専門家集団を発端にして、民間宗教者集団へと発展しました。禿髪僧は古い観音信仰や、聖徳太子信仰の担い手でもありました。庶民の間に浄土教が広まり、有力寺院が念仏ひじり集団を傘下に入れるようになると、念仏行者が浄土教でいうところの聖道門に取り込まれることになります。これを憂いた親鸞聖人は、戒を捨て行を捨て信仰を守る禿髪僧が理想に近いと考えたと思われます。
鎌倉時代に浄土教が庶民に広まったのには、絵師と絵解きの役割が大きいです。しかし、絵解きについては名前すら残した者はいません。一遍聖絵には絵解き比丘・比丘尼が3か所描かれています。傘からつるした巻物が目印です。
親鸞聖人を描いた絵師
専阿弥陀仏:鏡の御影のの裏書に、覚如上人の手によって記されている。
定禅法橋:親鸞伝絵の中で、弟子入西が聖人の許しを得て定禅に依頼し図画する。絵は残っていない。
琳阿弥陀仏:善信聖人絵琳阿本を作画、慕帰絵に如信上人の指導で絵伝をかいている。定禅として自画像を描いたか。